【 概 要 】−都野神社の創建は不詳ですが延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される式内社(論社)とされ与板の総鎮守として古くから信仰されてきました。与板の地は古くから信濃川舟運、交通の要所とされていた場所で、祭神である宗像姫三柱大神(多紀理姫命、市杵島姫命、多紀津姫命)は交通の神の最高神だった事から勧請されたと考えられます。都野神社の当初の鎮座地である背後の山頂は船から目立つ存在だった為灯明が灯台や目印に利用されていました。戦国時代に与板城に直江山城守兼続が入ると永正年間(1504〜20)に九州にある宇佐八幡宮の分霊を勧請したことで八幡宮と称するようになります。江戸時代に入ると都野神社、豊幡飯成、井伊神社は与板の三大神社とされ与板藩歴代藩主の崇敬社となり、天保7年(1836)の大火で社殿が焼失したときは8代藩主井伊直経がその再建にあたりました。現在の都野神社の社殿は焼失後再建されたもので本殿は天保11年(1840)、拝殿、幣殿は嘉永元年(1648)にそれぞれ造営され特に彫刻は熊谷宿小林斎源太郎がそれにあたり3年の年月をかけたといいます。都野神社社殿は長岡市指定有形文化財に指定されています。
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