【 概 要 】−平安時代末期、平家追討で第一の大功を挙げた源義経でしたが、増長が激しく源氏の頭領で兄である源頼朝の命令を何度も破り、許可を得ず朝廷から冠位を授かった事から鎌倉入りを拒否されました。源義経は頼朝に対し謀反を企てたものの、多くの武将は頼朝に恐れを成し鎌倉方に味方し、頼りにしていた朝廷も義経を見限りました。家臣達も各個撃破された為、唯一義経を迎え入れた奥州平泉を目指し少なくなった家臣と共に京都から下向しました。どの様な経路を採ったのかは不明ですか、義経死後数百年後に編纂された「義経記」には日本海側の海路と陸路を利用し平泉を目指したとされ、各地には義経の伝承が残されています。長岡市の寺泊もその1つで、伝承によると、寺泊の豪族である五十嵐家に暫く滞在したとされ、滞在中に敷地の一角に義経の重臣である武蔵坊弁慶が手堀で井戸を掘り、その水を義経に献上したと伝えられています。文化年間には漢学者の亀田朋斎が五十嵐家を訪れ次のような詩を残しています。「泌沸たる寒泉 斯に斂って井となる 其の味甘美に 其の気清冷なり 以って酒を醸すべく 以って茗を煮るべし 大早にも涸れず 巨浸にも充たず 祀を歴ること六百 源々窮り無し 誰か其れ之をうがつ 法師弁慶にぞある」 |