【 概 要 】−鎌倉時代末期、次期天皇の座を巡り持明院統と大覚寺統の2派が激しく争い、持明院統に属した藤原為兼(京極為兼)は政争に敗れ永禄6年(1298)に佐渡島に流罪となりました。当時の佐渡島への渡航は天候が良くないと行えなかった事から、為兼は渡航地である寺泊に約1ヶ月間風待ちの為に滞在し、その際、身の回りの世話をしたのが寺泊の遊女である初君とされます。天候が回復し佐渡島に渡る際、為兼は初君に対して「逢うことを またいつかはと 木綿たすき かけしちかひを 神にまかせて」を詠み、その返答として初姫は「もの思ひ 越路の浦の しら浪も たちかえるならひ ありとこそ聞け」を返し、寺泊の地を離れました。為兼は嘉元元年(1303)に罪が許され京都に戻ると伏見院の命により「玉葉和歌集」を編纂し正和2年(1313)に完成、その中に越後詠みびと知らずとして上記の和歌が列記されています(為兼が許された当時には初姫の消息は判らなくなっていたようです)。初君旧歌碑(もの思ひ 越路の浦の しら浪も たちかえるならひ ありとこそ聞け)は江戸時代後期に尼妙順・妙雪の尽力により建立されたもので、平成15年に現在地に移設され長岡市指定史跡に指定されています。
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