【 概 要 】−法音寺は天平7年、聖武天皇(在位・神亀元年:724年〜 天平勝宝元年:749年)の勅願により行基菩薩(奈良時代の高僧)と波羅門僧正(南天竺の僧)が開山したとされ、弘法大師空海(平安時代初期の高僧、真言宗の開祖)が、宗派を真言宗に改宗しました。平安時代末期に大地震とそれに伴う大津波により法音寺の境内が大破しましたが、嘉承元年(1106)に城永基(縁起では越後国主となっていますが、その当時は藤原氏や源氏が越後守に就任しています。城氏の関係者が越後守になったのは治承4年:1180年以降)によって再興され同じく庇護された乙宝寺(胎内市)、華報寺(阿賀野市)と共に領内三ヶ寺と呼ばれました。城氏は平家一門だった為、鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝から側近である佐々木盛綱が派遣追討され没落、変わって盛綱が加治荘の地頭として配されます。盛綱は兵乱により荒廃した法音寺の境内を再興庇護し源頼朝の死後には境内に供養塔である五輪塔(新発田市指定文化財)を建立し頼朝の御霊を供養しました。その後、法音寺は盛綱の後裔とされる加地氏が総菩提所、祈願所として庇護し境内には七堂伽藍が設けられました。加地氏の宗旨替えや没落により法音寺は衰微し、さらに慶長3年(1598)に上杉景勝に代わり春日山城(新潟県上越市)に配された堀氏は真言宗の寺院に庇護を加えなかった事でさらに荒廃が進みました(堀氏の上杉家縁の宗教弾圧は慶長5年:1600年の上杉遺民一揆の要因の一つとされます)。元和元年(1615)俊賀上人が再興、しかし、明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈運動により再び荒廃し、加治川の河川工事により法音寺が所有していた広大な境内を失いました。
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