【 概 要 】−福勝寺の創建は応永元年(1394)に雲洞庵(南魚沼市)の住職悦叟和尚が開山したと伝えられています。新発田氏の祖先である佐々木氏は鎌倉時代から地頭として周辺を支配し土着し、福勝寺11世摂叟梵政和尚の代に当時の当主佐々木治長が佐々木家(新発田家)歴代の菩提寺としました。新発田氏は揚北衆の1人として上杉謙信(春日山城の城主、関東管領、越後国守護)に仕え、跡継ぎ争いである"御館の乱"では上杉景勝(謙信の甥、上田長尾家当主)に協力し大功を挙げました。しかし、恩賞が領土安堵(事実上削減されたとも?)だけだった事などから景勝と対峙するようになり、越中、越後侵攻を目論む織田信長や会津の芦名氏の支援を得て天正9年(1581)に"新発田重家の乱"が勃発します。乱は天正15年(1587)に新発田城が落城し重家が自決するまで7年間続き一国人領主が上杉家という大名に善戦するという気概が感じられます。上杉家時代には新発田家縁の寺院は軽んじられましたが、慶長3年(1598)に上杉景勝が春日山城から会津黒川城に移った事を受けて溝口秀勝が新発田城の城主になると、一転して庇護を受けるようになり密かに埋葬されていた新発田重家の菩提が福勝寺に改葬されたと思われます(新発田重家は新発田城で最後の祝宴をした後、城から全ての兵を引き連れて決戦に挑み、一族である色部氏に捕縛された後に切腹し、菩提は当時の色部氏の菩提寺である長松寺に密かに葬られ供養されたそうです。しかし、その長松寺も現在は廃寺となっています)。江戸時代に入ると引き続き新発田藩主となった溝口家が福勝寺を庇護し重家の墓碑や御霊屋が建立され木像が寄進されています。
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