【 概 要 】−藤戸神社は平安時代に成立した延喜式神名帳に記載された式内社美久理神社の論社とされます。その根拠となる資料は乏しいとされますが、菅與吉が大正13年(1924)に編纂された「菅谿史跡」や明治3年(1870)に式内社や著名な神社を編纂した「神社覈禄」では藤戸神社を美久理神社に特定(比定)している事から、当時は確証的なものがあったのかも知れません。美久理神社には当社の他に新潟市沼垂東に鎮座する白山神社、新発田市田貝に鎮座する二王子神社がそれぞれ論社とされ、特に白山神社が有力視されているようです。それとは全く異なり、藤戸神社の社伝では創建は文治5年(1189)に初代鎌倉幕府将軍の源頼朝の命で越後の城氏を滅ぼした佐々木盛綱が加治荘を与えられ、鎮守として祖神である宇多天皇を祀り創建したと伝えられています。何れにしても境内背後の高台には佐々木家の後裔である加治氏が本城として築いた要害山城(加地城)がある事から加治氏から崇敬庇護され、関係が深かった事が推察されます。その加治氏も戦国時代末期には春日山城(新潟県上越市)の城主上杉景勝と対立し没落の憂いに合い、藤戸神社も衰退を余儀なくなったと思われます。長く加治明神と呼ばれていましたが、明治時代の神仏分離令を経て、社伝では創建者とされる佐々木盛綱が源平合戦の中の「藤戸の戦い」で大功を収めた伝承に因み「藤戸神社」に社号を改め村社に格付けされています。
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