【 概 要 】−古四王神社が何時頃から信仰されていたのかは判りませんが、祭神である大毘古命は崇神天皇の時代、四道将軍の1人として「越国」、現在の福井県、石川県、富山県、新潟県に派遣したとの記述がある事から開発神、「越王=こしおう」として祀られたという説があります。ただし、古四王信仰が見られるのは新潟県北部と東北地方の秋田県、山形県、岩手県、福島県に略限定される事から疑問視されています(出羽国、すなわち現在の秋田県、山形県も越国として見られていたたとの説もあります)。又、一説には7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍とされる阿倍比羅夫は越国に派遣、又は越国の豪族とされ、船団を率いて日本海を北上し蝦夷を平定したとの記述がある事から祖神である大毘古命を祀ったとも考えられます。又、古四王信仰の本社とされる秋田県秋田市寺内に鎮座する古四王神社は古代の城柵で出羽国府が一時設置された秋田城の鎮護寺とされた四天王寺と、三代実録に記載された「高泉神」が神仏習合し、それが転じたとの説もあります(新潟県村上市岩船周辺に設置された磐舟柵の周辺にも四天王寺が創建され、五重塔に阿倍倉梯麻呂が四天王像を奉納したとの伝承もあります)。四天王の内、毘沙門天は北方鎮護の守護神として信仰されるようになり、多くの古四王信仰を伝える神社では社殿を北向きにして本地仏として毘沙門天像を祀るのが常となり、当社もそれに習った信仰が続けられたと思われます。江戸時代の紀行家で民俗学の祖とも言われる菅江真澄が当社を訪れた際は、古四王宮と呼ばれているものの、本来、高志国(越国)を平定し古四王と呼ばれた大毘古命は祀られておらず、真言宗の寺院によって四天王像だけが祀られているだけだったと、著書「高志栞」に記載しています。明治時代の神仏分離令により、本地仏だった毘沙門天は別当寺院である高昌寺に遷され、改めて大毘古命を祀る高志王神社(古四王神社)となっています。
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