【 概 要 】−隆明山大栄寺は天文4年(1535)、伊藤祐郷が草庵を設けて創建したとされます。その後、寺院として整備され満光院を号し、当地を支配した吉田刑部小輔の菩提寺になるなど繁栄しましたが、天正15年(1587)、吉田家は「新発田重家の乱」の際、春日山城(新潟県上越市)の城主、上杉景勝に反乱を起した新発田城(新潟県新発田市)の城主新発田重家に加担した為、粛清され没落します。満光院は庇護者を失い衰微しましたが、慶長元年(1597)、雲洞庵(新潟県南魚沼市)の見哲和尚により再興され寺号も得船寺に改称し雲洞庵の末寺となっています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には会津黒川城(福島県会津若松市)に移封となった景勝が画策した「上杉遺民一揆」の兵火により多くの堂宇、記録、寺宝などが焼失し再び衰微しました。寛永8年(1631)、伊藤左五右ェ門が観音寺(新潟県阿賀野市)の笑山全悦禅師を招いて中興開山、その際、得船寺の他、周辺にあった満光寺、極楽寺を合併し寺号も大栄寺に改称、観音寺の末寺となりました。以後、大栄寺は北越研修道場として寺運が隆盛し境内には様々堂宇が整備され数多くの名僧が輩出されました。江戸時代に入ると大栄寺は沢海藩溝口家の菩提寺となり境内には2代藩主溝口政勝、3代藩主政良、政良の嫡子政武の墓碑が建立されています。
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