【 概 要 】−白山神社は戦国時代の度重なる兵火により度々社殿が焼失した為、そこに所蔵されていた記録などの古文書も失われ、正確に何時頃から祀られているのかは判らなくなっています。伝承によると概ね平安時代中期から後期頃に創建されたとされますが、同じく平安時代に成立した延喜式神名帳に式内社として記載されている船江神社の論社でもあり、こちらが正しければ創建年はさらに遡ると思われます。何れにしても、社号や祭神から現在石川県白山市に鎮座している白山比盗_社から祭神である菊理媛大神の分霊が勧請又は合祀されています(船江神社だとすると社号から当初は海神や水神に関係がある祭神が祀られていたと考えられ、菊理媛大神は白山の祭神である為に全く性質が異なる神という事になります)。何時頃からか神仏習合の形態を採り、別当寺院だった宝亀院の住職憲海が元亀年間(1570〜1573年)に十一面観音銅像、宝剣、鏡を奉納した記録が残っている為に少なくとも戦国時代には神仏習合の状態だった事が窺えます。明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈により宝亀院とは分離し、本地仏として信仰されていた十一面観音銅像は宝亀院に遷されています。境内地は信濃川の河口に位置し、当時は境内を含む一帯のみが微高地だった為に白山島と呼ばれ、白山神社の門前町は物資の集積地として特別な存在でした。新発田城(新潟県新発田市)の城主新発田勝重が春日山城(新潟県上越市)の城主上杉景勝に反乱を試みた際には、戦略的な拠点として白山島に築かれたという白山城が戦場となり、大きな被害を受け、戦いに勝利した上杉景勝は白山神社に鏡と啓を寄進した事でも存在が大きかった事が窺えます(白山城の城地は特定されていません)。江戸時代に入ると、長岡藩(新潟県長岡市)の藩主牧野家の崇敬社となり、社殿の造営などが行われています。
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