【 概 要 】−中野家は、江戸中期頃から越後国蒲原郡金津村の庄屋を代々勤める家柄で、文化元年(1804)には中野次郎左衛門が草生水油(現在の原油、石油の意味で当時は「くさくてあぶらのようなみず」という意味で、草生津、草水、臭水、草生水油などと呼ばれました。)の採掘権を取得して「泉舎」は発足、「草生水油稼人」と呼ばれるようになっています。明治6年(1873)に「石油坑法」が発布されると中野貫一は石油試掘の許可を得て、明治7年(1874)に中野家の所有している敷地内に試掘を開始しましたが、明治19年(1886)に坑法違反として採掘が禁止され、それを不服として裁判まで発展します。明治24年(1891)に裁判に勝利すると再び油田開発に尽力し、明治36年(1903)にようやく大規模な油脈を発掘し大きく発展する基礎となり後に「新潟の石油王」の異名がありました。その後は、石油だけでなく、土地開発や林業などにも事業を拡大し、地元の公共施設にも多大寄付をして地域発展にも大きく貢献しました。現在の中野邸は明治33年(1900)から明治37年(1904)にかけて順次整備されたもので、失業者対策的な要素も強かったとされ、特に庭園は当時の粋が集められた名園とされます。中野家が創業した中央石油は大正9年(1920)に日本石油に買収され、中野興業も昭和17年(1942)に帝国石油に合併、金津油田(当時は丸泉石油興産株式会社)も平成8年(1998)に掘削作業が停止しています。現在、中野邸(邸宅及び庭園)は中野美術館、金津油田は「石油の里公園」として整備され平成19年(2007)に石油文化遺産施設として「近代化産業遺産」に認定されています。
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