【 概 要 】−大悲山普談寺が何時頃から信仰されたのかは判りませんが、境内背後の観音堂は聖徳太子が彫刻したと伝わる古仏で、当初は和泉国(現在の大阪府)のとある武士の邸宅に安置されていたそうです。ある晩、その武士の夢枕に御告げが下り、その古仏が越後に勧請する事となり一宇が設けられ、その後は春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信や景勝、その家臣である船山氏、村上城(新潟県村上市)の城主本庄重長、新津城の城主丹波守勝資など歴代領主や周辺住民達から篤く信仰されたそうです。江戸時代に入ると沢海藩溝口家の帰依となり、承応2年(1653)には良快和尚を招いて再興されています。仁王門は元和4年(1618)に造営されたもので、入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚単層門、内部には仁王門と同年に彫刻された金剛力士像が安置され「股くぐり」を行うと子供が健康になると伝えられています。観音堂は宝形造り、銅板葺、桁行4間、梁間4間、正面1間唐破風向拝付、内部には札所本尊である木造十一面観世音菩薩座像(朝日観音)が安置され天正19年(1591)に室町幕府の御用絵師だった狩野元信が描いた絵馬(新潟市指定文化財)が掲げられています。普談寺の本堂には真言宗の開祖である弘法大師空海が彫刻したと伝わる不動明王像が本尊として安置されています。越後三十三観音霊場第30番札所。蒲原三十三観音霊場第9番札所。越後八十八カ所霊場第41番札所。
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