【 概 要 】−伊藤家は日本有数の豪農として知られ、宝暦6年(1756)に初代文吉が本百姓として独立すると、代々文吉を世襲し、2代目には早くも名字帯刀を許される程の格式を得ました。明治30年代に入ると千町歩を越える大豪農となり最盛期の明治41年(1908)には1384.7町歩という新潟県最大規模の土地を所有しました。第二次世界大戦が終結するとGHQの指揮の下、日本政府によって地主制度が解体され、強制的に地主が所有していた農地の大部分を政府が安価で買い取り、小作人に与えました。これにより伊藤文吉家も大打撃を受け以前のような収入が得られず屋敷の維持も苦慮しましたが七代文吉は屋敷を博物館にする事によって維持する事を図りました。現在の建物群は5代文吉の代の明治15年(1882)から明治22年(1889)の約8年の年月をかけて建てられたもので、敷地面積8800坪、建坪1200坪、部屋数65、周囲は土豪の居館のように水堀と土塁、土塀で囲い、表門は大規模な長屋門、表玄関は大名屋敷を彷彿させる式台付、格式の高い上段の間には意匠の凝った細工が施されています。又、敷地内には珍しい平面が三角形の「三楽亭」や村松宗悦(柏原出身の茶人)が設計した積翠庵、遠く佐渡島を見る事が出来たという佐渡看亭の3つの茶室の他、数多くの土蔵、倉庫、作業場など数多くの建物が残され、その多くが国登録有形文化財に登録されています。
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