【 概 要 】−笹川家は戦国大名で名を馳せた武田家の一族と伝わる旧家で、伝承によると笹川家の祖となった武田治右衛門源義勝は武田信玄の弟武田信繁の長男とされます。しかし、歴史上は武田信繁の長男は望月家に養子として入り永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いに参陣、その直後に死去している為に同一人物かどうかは不詳。当家の義勝は武田家の滅亡後に笹川村(長野県飯山市)に土着して地名から笹川氏を名乗るようになり、その後に春日山城(新潟県上越市)の城主上杉景勝を頼り当地に入植しました。以来、当地域の開発に尽力し、慶安2年(1649)の3代彦左衛門源信秀の代には村上藩(新潟県村上市・本城:村上城)から味方郷8ヵ村の大庄屋に抜擢され江戸幕府が倒れ制度が瓦解するまで9代に渡りこの任を歴任しました。明治時代以降は当地域を代表する大地主として治水事業や新田開発などを積極的に行い、さらに大規模な土地を獲得しました。笹川家住宅の屋敷の廻りは土豪の居館のように水堀と土塁、土塀で囲い、表門は寄棟、茅葺、長屋門形式、母屋は文政2年(1819)の建築で大規模で意匠的にも高く当時の豪農の館として大変貴重な事から、米蔵、表座敷及び台所、三戸前口土蔵、飯米蔵、居室部、表門、井戸小屋、雑蔵、外便所、奥土蔵、文庫、宅地及び墳墓地と共に国指定重要文化財に指定されています。笹川家住宅の隣地には武田家が信仰していた信濃国(長野県)一宮の諏訪大社の分霊が笹川家によって勧請され味方諏訪神社が創建、現在は当地の鎮守として信仰されています。味方諏訪神社の本殿は慶長16年(1611)に造営された古建築として貴重な事から新潟県指定文化財に指定されています。
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