【 概 要 】−栃尾城は戦国時代に越後国守護代だった長尾家の家臣本庄氏の居城として拡張整備された中世の山城で幼少時の上杉謙信が過した城としても知られます。特に、天文13年(1544)の「栃尾城の戦い」が上杉謙信の初陣とされ、周辺の国人領主達が幼少の謙信を侮り慢心で栃尾城を攻めた結果、謙信の立てた奇襲作戦により戦線が崩され、本隊によって壊滅的な被害を受けたと伝えられています。その後も栃尾城を拠点として連戦連勝を重ねると兄である長尾晴景よりも家臣の支持を集め、晴景は事実上強制的に隠居となり謙信が長尾家の家督を継ぎ、春日山城(新潟県上越市)に入りました。その後は本庄玖介、宇野左馬充などの家臣が栃尾城の城代を勤め、天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の養子だった上杉景勝と上杉景虎が跡目争い(御舘の乱)が勃発し当時の城代だった本庄秀綱は景虎方に与した為、天正8年(1580)に景勝方に攻められ落城しています。その後は景勝の家臣佐藤甚助忠久が栃尾城の城代となりましたが、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると、変わって春日山城に45万石で入封した堀秀治の支配下に入り、栃尾城には家臣神子田長門守を1万石で配します。堀家は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に与し領地が安堵されますが、慶長15年(1610)に堀家内部で内紛が起り改易となり、それに伴い栃尾城も廃城となっています。栃尾城の跡地は現在でも明瞭な遺構が残り、歴史的にも貴重な事から新潟県指定史跡に指定されています。
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