【 概 要 】−宝永元年(1705)遠江国掛川藩の藩主だった井伊直朝は体調が優れない事が続き、終には発狂の為に改易となりました。しかし、井伊家は本来、徳川四天王の一角を占めた井伊直政の直系で彦根井伊家の本家筋にあたる名族の為(理由は不詳ですが、長男の井伊直継が事実上の排斥、弟の井伊直孝が彦根藩を継ぐ事になり、直継の家系は安中藩主→西尾藩主→掛川藩主を歴任しました。)、井伊直矩を婿養子として家名再興が許され宝永2年(1705)に3万5千石から2万石に減封された上で与板藩に移封となりました。井伊直矩は城主格では無かった為、現在地に陣屋構えの施設を設けると内部には藩主居館と藩庁を設置、周辺には土塁と堀を築き、信濃川を天然の外堀に見立てました。6代藩主井伊直朗は幕府内で年寄などの要職を歴任した事から城持ち大名へ昇格し城郭としての体裁が整えられました。戊辰戦争の際には本藩である彦根藩が新政府軍に協力した事から、周辺諸藩の中では唯一新政府軍に属し、長岡藩などから集中砲火を浴び与板城(陣屋)も大部分が兵火により焼失しています。明治時代に入り廃城となり、大手門が西本願寺新潟別院に、切手門が恩行寺の山門として移築され共に長岡市文化財に指定されています。
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