【 概 要 】−元和2年(1616)、飯山城5万石の城主堀直寄が長岡藩8万石で入封、当時の長岡藩の中心部は蔵王堂城(現在の金峯神社)だった為、当初は蔵王堂城が本城でしたが、狭小で頻繁に水害に悩まされた土地柄だった為に、早くから長岡城の築城が縄張りされました。しかし、元和4年(1618)に完成を待たずして堀直寄は村上藩に10万石で移封となり、変わって長岡藩に牧野忠成が長峰藩5万石から6万2千石(後に7万4千石)で入封し、工事を引き継ぎ完成しました。長岡城は姉川と太田川を天然の外堀に見立てた梯郭式平城で、大きく3重の堀に囲われ本丸には天守閣に見立てた三重櫓が設けられ、数多くの櫓や城門が設置されていました。牧野家は譜代大名だった為、堅城が許されていたと思われます。戊辰戦争の際には当初は中立を保とうと家老河井継之助が奔走したものの、新潟県小千谷市にある慈眼寺で新政府軍監の岩村精一郎との会談で長岡藩の意向が聞き入れられず、やむなく奥羽越列藩同盟に参画し新政府軍と戦いが行われました。長岡藩は奥羽越列藩同盟の他藩と比べ近代兵器を事前に購入するなど軍の近代化が進んでいた事もあり、当初は新政府軍とも互角以上の戦いを行い新政府軍側にも大きく被害を与えています。しかし、長岡方面に大軍が投入されると次第に形成が不利となり長岡城も戦場となり城下にも大きな被害を受けました。河井継之助は新政府に占拠された長岡城を再び奪取するなど奮戦しましたが、銃弾により負傷し会津藩に逃れる途中で命を落としています。戊辰戦争が終結すると長岡城は徹底的に破却され廃城、その後も市街化整備や太平洋戦争の空襲などによりその姿を消しました。
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