【 概 要 】−多多神社は何時頃から祀られていたのかは判りませんが、伝承によると景行天皇の御代(西暦71〜130年)に日本武尊の東夷東征の従軍した吉備武彦の家臣、多臣襲木彦が当地を支配していた領主の娘と結婚、当初の目的である東征を捨て生活するにあたり祖神である神八井耳尊(神武天皇の皇子、多臣(多氏)及びその同族の祖とされる)を主祭神、神日本磐余彦尊(神武天皇の即位前の名称)を配神として祀ったとされ、大同元年(806)に藤原朝臣人道浄眼により多多神社の社殿が造営され、正式に神社として成立したとされます。平安時代に成立し朝廷が名社として認識した神社を列記した延喜式神名帳に記載された多多神社は当社とされます。ただし、多多神社には当社の他、柏崎市西山町別山に鎮座する多岐神社も由緒としており何れも決定的な資料が無い為に論社となっています。文明年間(1469〜1486年)の戦乱による兵火で多多神社の社殿、社宝、記録などが焼失し、これ以前の詳細が不詳、永正16年(1519)に現在の本殿(国指定重要文化財)が再建されている事から前後に再興が図られたと推定されます。その後は上杉家によって庇護されたと思われますが、慶長3年(1598)に上杉景勝が居城を春日山城(新潟県上越市)から会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると、新たに春日山城の城主となった堀秀治は社領を取り上げた為に衰微し、江戸時代には8石5斗3升程度に留まっています。古くから神仏習合し「六社明神」「六所権現」と称していましたが、明治時代の神仏分離令を経て旧社号である「多多神社」に復し明治6年(1873)に村社に列しています。
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