【 概 要 】−中山神社が何時頃から信仰されていたのかは判りませんが、伝承によると奈良時代末期の延暦3年(784)に創建されたと伝えられています。平安時代に成立した朝廷が認識した格式ある神社を列記した延喜式神名帳の蒲原郡中山神社は当社の事としています。ただし、他にも式内社中山神社には論社がある他、同じ橋田村の鶉橋に鎮座し当社に合祀された天神社も式内社とされる宇都良波志神社の論社である事から、同じ村に式内社が2社鎮座している可能性は低いとも考えられます。何れにしても明治時代以前は康永3年(1344)に日吉大社の祭神である大山咋命が祀られるようになってからは山王権現と呼ばれる事が一般的だったようです。橋田村の産土神として住民だけでなく領主である護摩堂城の城主から庇護され度々社殿の営繕工事や社領の寄進が行われます。護摩堂城は中山神社の境内の南西方向に位置し、城から見ると北東方向にあたる為、鬼門鎮守として信仰の対象になっていたと思われます。護摩堂城は南北朝時代頃に平賀氏によって築かれた中世の山城で天文16年(1547)には当時の城主平賀左京進為資によって社殿が修復され社領6反2歩が寄進されています。護摩堂城は会津の芦名氏に対する重要拠点となった為、必然的に中山神社の信仰も強まり上杉家の祈願所として篤く庇護されるようになっています。慶長3年(1598)に上杉景勝が春日山城(新潟県上越市)から会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると、溝口勝秀が新発田城(新潟県新発田市)に入封、当地は新発田領に組み込まれた事もあり勝秀が参拝に訪れ、社領を安堵したとされます。江戸時代に入ると、溝口家が新発田藩を立藩し引き続き当地を支配した事から中山神社は溝口家から庇護の対象となっています。明治時代に入り日枝神社、その後旧社号と思われる中山神社に復しています。
|