【 概 要 】−水原代官所は延享3年(1746)に設けられた幕府の代官所で、中世長く当地を支配した水原氏の居城であった水原城跡に建設されました。水原城は鎌倉時代に築城されたと推定される平城で、東西80m、南北70mの規模、五頭連峰を源流とする大荒川と安野川を天然の外堀として見立てられ、3方を内堀で囲んでいました。水原氏は戦国時代に新発田重家(新発田城の城主)との抗争により没落し、天正14年(1586)に名跡を継いだ大関親憲は3千4百石を領しましたが、慶長3年(1598)に主家である上杉景勝が春日山城(新潟県上越市)から会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると、猪苗代城5千5百石の城代として抜擢され当地を離れ水原城は廃城になったと思われます。水原代官所は初代代官として内藤十右衛門が着任してから歴代の代官の人数は22代を数え石高は5万石から10万石を領していました。水原代官所の役割としては支配地域である下越後の新田開発や年貢の徴収、隣接する外様大名の新発田藩(本城:新発田城)、村上藩(本城:村上城)の監視、情報収集など多岐にわたります。慶応4年(1868)の幕末の動乱期に会津藩預かりとなりますが新政府軍の侵攻により会津藩は撤退し水原代官所は廃されます。一時、新政府が接収し利用しますが、付近にある越後府に機能を移した為、跡地には水原尋常小学校や宅地となりました。現在は平成5年に当時の水原代官所の平面図を基に復元されて当時の姿を見ることが出来ます。
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