【 概 要 】−真福寺には次のような伝説が伝えられています。桓武天皇の御代(天応元年:781年〜延暦25年:806年)、この村に住んでいた1人の貧しい老人が日頃から熱心に神仏を信仰していたところ、ある夜不思議な夢を見ました。その夢には、いかにも身分の高そうないでたちの人物が現れ、自らを村から程近い池に住む竜神とし、池の中に金色に輝く観音像があるから探し出し、池の畔にある霊木から小さい観音像を彫刻して、金色の観音像の中に収めて奉祭して欲しいと告げました。次の朝、目が覚めた老人は早速御告げに従い池の中から観音像を見つけ出し、自ら霊木から彫りだした観音像を胎内に収めて祀るようになりました。その話を聞いた住民達が池津観音として篤く信仰するようになり広く知られるようになると、鎌倉時代に当地の領主となった阿部太郎は池津観音の別当も兼ねて、代々子孫はその任を担いました。正嘉2年(1258)に越後国(新潟県)を巡錫で訪れた最明寺入道(鎌倉幕府5代執権北条時頼)は池津観音を越後三十三観音霊場の第14番札所に定めると、さらに信仰が広がりました。戦国時代に入ると春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信の家臣石黒忠朗が当地の領主となると、石黒家の菩提寺として真福寺を中興し、真福寺が池津観音の別当寺院となりました。延宝元年(1673)、火事により観音堂が焼失、創建時の観音像は失われましたが、当時の真福寺の住職である俊永が、焼け落ちた観音堂の中で必死に念じると、新たな観音像が出現するとい奇跡が起りました。その奇跡の話を聞いた陽三宝院御門主はいたく感動し、創建時の故事に倣い、小さな観音像を彫刻し胎内に収めました。越後三十三観音霊場第14番札所。
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