【 概 要 】−平林城が何時頃に築城されたのかは判りませんが、古文書には建久元年(1190)に平林内蔵介が居している事が記載されている為、これが正しければ鎌倉時代成立前後から存在してた事が窺えます。その後は長く平林氏が利用していましたが南北朝の動乱時に南朝方に与した平林氏は北朝に与した小泉庄色部条の地頭だった色部氏に攻められ没落し、以後、色部氏が居城として利用しています。永正の大乱では当寺の城主色部昌長は越後国守護上杉家方として行動した為、守護代長尾景為の攻撃により落城、その後は長尾家に転じています。天文8年(1539)の天文の乱では守護職上杉定実の養子縁組問題が争乱にまで発展し色部勝長は伊達稙宗や中条藤資などと対立し稙宗方の鳥坂城に侵攻しています。その後は春日山城の城主上杉謙信の重臣として多くの戦に従軍して大功を挙げ、謙信の死後に起った跡目争いである「御舘の乱」では当時の城主色部長実(長間)は上杉景勝に与して行動し引き続き重臣の立場を確立し天正16年(1588)には景勝の上洛に随行し豊臣秀吉から豊臣姓を賜っています。慶長3年(1598)に主家上杉景勝が居城を春日山城(新潟県上越市)から会津黒川城(福島県会津若松市)に移ると当時の城主色部光長は金山城(山形県南陽市)に配された為、平林城は廃城となっています。平林城の城跡は昭和53年(1978)には国指定史跡に指定されています。近くには色部氏歴代の菩提寺である千眼寺が残され、色部長真が篤く信仰した保呂羽堂は村上市指定文化財に指定されています。
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