【 概 要 】−光徳寺は古くから村上藩主の菩提寺として城下町の中で唯一村上城の城内である三の丸羽黒口に建立された寺院で江戸時代当初は英倫寺(堀家の後裔である村松藩堀家の菩提寺は英林寺)と称し堀家が帰依していました。その後藩主が変わる毎に寺名が変わり松平氏の時は光顕寺(松平直矩の一族である越前松平家の菩提寺は考顕寺)、榊原氏の時は瑞峰寺、本多氏時代には西岸寺(祖である本多忠勝の戒名:西岸寺殿前中書長誉良信大居士)、松平氏の時は天休院となり内藤氏が藩主となると天休院跡地に改めて光徳寺を創建しています。元々の光徳寺は正保元年(1644年)に内藤家が棚倉藩(福島県棚倉町)の藩主を担っている際に、内藤家の菩提寺として源蔵和尚を招いて開山した寺院で、享保5年(1720)に村上藩に移封になると、当地に境内を移し引き続き篤く信仰され寺領の安堵、堂宇の営繕費、祭祀料などが庇護されました(境内をそのまま利用し為、光徳寺は浄土宗ですが、全体的には曹洞宗の形式が残されています)。内藤家は徳川将軍家との血縁関係があった為、本堂内部には歴代内藤家当主の位牌と共に、将軍家の位牌が13柱が安置され篤く祀られています。大名は死去した場所によって埋葬場所が異なる場合が多く内藤氏の江戸の菩提寺は小石川の無量院や広尾の東北寺でしたが、平成元年(1989)に境内整備などを理由に内藤家の当主や、一族、合わせて60余りの墓碑が村上市の光徳寺に遷され「内藤候歴代城主の墓所」として村上市指定史跡、境内一帯は村上城の跡地として国指定史跡に指定されています。
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