【 概 要 】−大前神社が何時頃から祀られていたのかは判りませんが、和銅年間や弘仁年間、大同2年など諸説あり、何れも口伝で明確な資料が存在しません。当初信仰されていた祭神も後年編纂された「神名帳考証」や「特選神名牒」では豊城入彦命、「越後風土記節解」や「神社覈録」では太田諸命、「越後野史」では大山祇命、「南魚沼郡誌」では天津彦火瓊瓊杵尊と多種多様で何を参考にしたのかも判りません。平安時代に成立した延喜式神名帳で越後国魚沼郡鎮座大前神社は当社以外に有力な論社が無い事や、少なくとも江戸時代後期には現在の社号である「大前神社」と称していた事などから当社が比定社となっています。大前神社には中世以前の資料が無く詳細は不詳ですが、戦国時代には春日山城の城主である上杉家から庇護されていたと推定され、慶長5年(1600)に行われた関が原の戦いの際には、西軍に与し会津黒川城(福島県会津若松市)に移封となった前領主である上杉景勝に同調しています。戦乱のさなか発生した上杉遺民一揆(上杉家執政の直江兼続が春日山城の堀秀治などを会津領に侵攻させない為に画策したとされます。)では、大前神社の神官藤原吉忠が一揆に参画し、西軍が敗れ一揆が鎮圧されると上杉家を頼り会津に逃亡しています。神官が逃亡した事で大前神社は衰微しましたが江戸時代初期に八幡神社の神官山田兵部祐藤原吉久の2男山田吉重を迎え再興、その後、稲荷神を勧請合祀して一時「稲荷大明神」などと称していました。寛政9年(1797)に京都の神社を総括する吉田家の許可を得て旧社号である大前神社に改称、明治時代の神仏分離令を経て村社に格付けされています。例祭で奉納される「翁式三番叟」は新潟県指定無形民俗文化財、大前神社境内から湧出る「滝谷の清水」は新潟県名水百選に選定されています。
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