【 概 要 】−天昌寺の前身である「実際庵」は奈良時代に藤原房丸が開基となり泰澄大師が彫刻した木造観世音菩薩座像を本尊とした密教寺院でした。伝承通りとすれば木造観世音菩薩座像は奈良時代の製作ですが、学術的には平安時代後期の特徴を持つ鎌倉時代初期のものと推定され、桂材、一木造り、像高106cm、慶長17年(1612)に修理した銘が墨書がある大変貴重なもので昭和50年(1975)に新潟県指定文化財に指定されています。平安時代後期には天台宗の高僧として知られた恵心僧都源信が天昌寺を訪れ木造多聞天立像と木造持国天立像が新たに彫刻され奉納されたとも伝えられています。伝承通りとすれば両像は平安時代後期の製作ですが、学術的には鎌倉時代前期のものとされ(本尊である木造観世音菩薩座像と共通点が多い)、何れも桂材、一木造り、像高117.5cm、意匠的にも大変優れ昭和50年(1975)に新潟県指定文化財に指定されています。延徳元年(1489)に雪洞庵7世禅実和尚が召還され曹洞宗の寺院に改められ、天正元年(1573)現在の寺号である「天昌寺」に改めています。天昌寺本堂外陣欄間に施されている精緻な彫刻は嘉永7年(1854)、熊谷源太郎56歳の時の作で南魚沼市指定文化財に指定されています。天昌寺背後の高台には観音堂が建立され、越後三十三観音霊場12番札所、上田観音札所二十七番に選定されています。又、文化文政年間(1804〜1830年)に天昌寺の住職は「北越雪譜」の作者鈴木牧之縁の人物で、天昌寺も舞台の1つとして描かれています。
|