【 概 要 】−関興寺の創建は応永17年(1410)に覚翁祖伝和尚が開基したと伝えられています。覚翁は関東管領であった上杉憲顕の子供だった事で鎌倉公方だった足利氏や越後守護代長尾家の一族上田長尾氏の庇護となり寺領や堂宇の造営などが行われました。天正6年(1578)に春日山城の城主上杉謙信が死去すると後継ぎ争いが激化し俗に言う"御館の乱"が勃発、関興寺は上杉景勝側で行動し、戦乱に巻き込まれ堂宇も兵火で焼失しました。天正14年(1586)に景勝の寄進により堂宇が再建されますが文禄3年(1594)祝融の災によって再び焼失、庇護者であった景勝は春日山城から会津の鶴ヶ城(福島県会津若松市)、出羽の米沢城(山形県米沢市)と居城が変わった事で寺運衰退し、慶長5年(1600)に景勝を頼り米沢に移っています(米沢城の城下町にも関興寺が創建されています)。寛永6年(1629)に再び火災で焼失し、それを期に再び越後に戻り堂宇の整備を行いました。又、"関興寺のみそなめたか"の言葉の由来は、案内板によると「 天正6年上杉謙信の没後、景勝・景虎二養子による家督相続争いが合戦がおこり合戦となり兵火のため諸堂が焼失する。時の住職、雨天是鑑和尚は上杉氏寄進の大般若経六百巻を味噌桶中に隠し兵火より護った事から、大般若経を火の難から護った味噌であるからこの味噌をいただくと福徳が授かると諸方より関興寺に参詣するもの多くいつとはなしに「関興寺のみそなめたか」といいはやされるようになった。」とあります。
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