【 概 要 】−斐太神社の創建は平安時代初期の大同2年(807)に勧請されたと伝わる古社です。又、一説には神話の時代に大國主命(島根県出雲市:出雲大社の祭神)が御子言代主命と建御名方命(長野県諏訪市・下諏訪町:諏訪大社の祭神)を引き連れ領土経営をし矢代川鎮護として岡澤山山頂付近に斐太神社を創建したとの伝承も残っています。さらに、斐太神社の境内周辺には弥生時代後期の遺跡や数多くの古墳が集中している事から、それらに関わった一族の祖神が祀られたのが源泉になったとも推定されています。斐太神社の社号は祭神が領地を「日高見国」と呼びそれが転じたとも、開発した田畑が肥沃的だった事から「肥田」と呼ばれそれが転じたとも、当初は荒人命(ひ田臣)を祖神とする一族が奉祭したとも云われています。斐太神社は平安時代に成立した喜式神名帳に記載された式内社とされ歴代領主に崇敬され、特に戦国時代に関東管領と越後国守護職を担った上杉謙信の信仰が厚く鮫ヶ尾城の鬼門鎮護として天正2年(1574)に現在地に遷座し社殿を建立、周囲128ヶ村の総社とし多くの社領を寄進したとされます。謙信が死去すると後継ぎ争いが激化、"御館の乱"が起こり上杉景虎が春日山城(上越市)を追われ鮫ヶ尾城へ入った事で周囲が戦場となり斐太神社も兵火で焼失してしまいます(上杉景虎は家臣に裏切られ鮫ヶ尾城で自刃しています)。その後も歴代高田藩(本城・高田城)の藩主から崇敬され榊原家では代々藩主が参拝したとされ、社宝である三本槍、一本槍、薙刀は榊原家が寄進したものとされます。
|