【 概 要 】−関山宝蔵院は和銅元年(706)に裸行上人が勧請した関山神社の別当寺院でした。関山神社は延喜式神名帳に記載されている式内社大神社の論社で、早くから神仏習合し、裸行上人が妙高山で阿弥陀三尊の出現を得た事や木曽源氏頭領の木曽義仲が奉納した阿弥陀如来像、勢至菩薩像、観世音菩薩像の3躯を本尊にしていた事などから妙高山関山三社権現と呼ばれ、妙高山山岳信仰の中核として広く影響力がありました。関山宝蔵院は事務、祭事など一切を仕切り山岳修験道の道場にも利用されました。妙高五山(関の庄)は関山神社、宝蔵院の所領とされ許可が無ければ入山禁止とされ半ば治外法権のような所で領主や藩主も口出しが出来なかったそうです。鎌倉時代には木曽義仲、戦国時代には春日山城(上越市)の城主上杉謙信の帰依が特に篤かったとされ最盛期には安楽院、法華院、覚明院、平等院、小野寺などのを従え、境内には七堂伽藍70余坊を抱える大寺院となりました。謙信が死去すると後継ぎ争いが激化、"御館の乱"が起こり上杉家が一時弱体化、その間隙をついて織田信長家臣森長可が越後に侵攻し堂宇は焼き討ちあい焼失し一時衰退します。江戸時代に入ると幕府から100石の社領を安堵され寺運も隆盛しますが明治時代初頭に発令された神仏分離令により関山宝蔵院は廃されます。堂宇が破却されるなか庫裏だけは明治11年(1878)に東本願寺新井別院に移設し明治天皇北陸巡幸の行在所に改修され現存しています。関山宝蔵院跡地には石段や石庭、住職の墓碑などが残り新潟県指定史跡(庭園は国指定名勝)に指定されています。
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