新潟県・妙高市・鮫ヶ尾城

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【 概 要 】−鮫ヶ尾城は北国街道からの敵の侵入を防ぐ春日山城(新潟県上越市)直近の支城として重要視され、この地方としては最大級の規模を誇ります。鮫ヶ尾城は標高200程の典型的な山城で北と西の2方向は深い沢に囲まれ南側は河川が流れる天然の要害で堀江氏が守っていました。天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると、正式な後継を決めていなかった為に上杉景虎(北条氏康7男、越相同盟の人質として春日山城に送られたが謙信に気に入られ、謙信の幼名の「影虎」を与えられ景勝の妹と結婚して一族扱いを受けた。)と上杉景勝(謙信の姉である桃仙院と上田長尾家の当主長尾政景との子供)の2人の養子の後継ぎ争いが激化、"御館の乱"が起こり、越後だけでなく北日本の大名まで巻き込んだ大戦乱となります。春日山城から追い出された景虎が城下にある御館(元関東管領上杉憲政の居館)に籠城、交戦し当初は景虎有利に戦局が展開しましたが、家臣団の切り崩しや武田勝頼の見限り(勝頼の妹菊姫の輿入れと東上野の割譲、多額な金品贈与(黄金千枚とも)によって景勝方に転じたとされます。)などで次第に不利になっていきます。天正7年(1579)2月になると景勝の攻勢が強まり、元関東管領だった上杉憲政は和睦をする為に景虎の嫡男道満丸と共に春日山城に向かいますが、景勝方に惨殺、一方を聞いた景虎は一端実家である北条氏を頼り再起を図ろうと御舘を自ら焼いて脱出し、関東へ退却しようと鮫ヶ尾城に入ります。城主であった堀江宗親は景虎側の武将として行動していましたが既に景勝側の安田氏に内通していた為、景虎が入城したのを見計らい二の丸に火をかけ鮫ヶ尾城を脱出します。直後、鮫ヶ尾城は景勝方の総攻撃を受け景虎は妻子共々自刃し落城し、その後鮫ヶ尾城は廃城になったと思われます。

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鮫ヶ尾城(妙高市):周辺の見所

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