新潟県・弥彦村・弥彦神社

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【 概 要 】−弥彦神社の創建は不詳ですが、伝承によると神武天皇の御代、後の祭神となる天香山命が北方鎮護、開発の命を受け越後国に上陸し、農業、漁業、養蚕、製塩の技術を伝えたことから、後に越後国の開発神として祀られるようになったと伝えられています。ただし、一般的に天香山命は天照大神の曾孫神で尾張氏の祖神である事から当初は地元神が祀られ、何らかの理由で祭神が入れ替わったとも考えられます。弥彦山も日本海や周囲の平野から見ると十分霊山として信仰の対象になる山姿をしいる事から、当初は弥彦山自体を信仰する自然崇拝から地元神である伊夜比古神を祀る神社となり中世以降に天香山命に取って変わられたと考える方が自然と思われます(越後国造家である高志氏の祖神が祀られていたとも)。何れにしても弥彦神社は古くから中央にも聞こえる存在で7〜8世紀に編纂された「万葉集」の巻十六で記載されている「伊夜比古のおのれ神さび青雲の たなびく日すら小雨そぼ降る」、「伊夜彦神の麓に今日らもか 鹿の伏すらむ皮服着て角附きながら」の歌で出てくる「伊夜比古」、「伊夜彦神」は弥彦神社を指しているとされます。弥彦神社は格式も高く承和9年(842)に従五位下、貞観3年(861)に従四位下、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では越後国54社の中で唯一名神大神に列し越後国一之宮とされました。越後国一之宮には諸説あり天津神社新潟県糸魚川市:式内社大神神社の論社)、居多神社新潟県上越市:式内社、越後国府に隣接していた事から越後の支配者である春日山城の城主上杉家、長尾家、高田藩(本城・高田城)の藩主、長岡藩(本城・長岡城)の藩主などから越後一之宮として崇敬庇護された)も称しています。弥彦神社は歴代領主や為政者からも崇敬庇護され鎌倉幕府からは社領3千貫、江戸時代には徳川家から社領500石が寄進され明治4年(1871)には国幣中社に列しています。元禄2年(1689)7月3日には奥之細道で当地を訪れた松尾芭蕉と随伴者で弟子である曽良も弥彦神社を参拝しています。弥彦神社の境内社である十柱神社は江戸時代中期の社殿建築の遺構として大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
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弥彦神社(弥彦村):周辺の見所

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