【 概 要 】−長瀬神社が何時頃から信仰されていたのかは判りませんが、欽明天皇の勅命により勧請され延暦5年(786)に社殿が造営されたそうです。平安時代の成立した延喜式神名帳に列記されている長瀬神社を当社としていますが、式内社長瀬神社には当社の他、加茂市宮寄上に鎮座する長瀬神社、五泉市村松町矢津に鎮座する矢津八幡宮が論社となっています。元々は加茂川の守護神たる水神、瀬織津姫命が祀られ、川瀬に因む事から長瀬神社と呼ばれていましたが長治2年(1105)、加茂義綱(源頼義の次男)が源氏の氏神である石清水八幡宮(男山八幡宮:京都府八幡市)の分霊を勧請合祀すると、「八幡宮」と呼ばれるようになっています。通説では加茂義綱は天仁2年(1109)に源氏の頭領だった源義家の後継者である義忠惨殺の嫌疑を掛けられ佐渡島(新潟県佐渡市)に流され、その後、嫌疑が晴れるも天承2年(1132)に為義の軍が佐渡島に派兵され自刃に追い込まれています。しかし、新潟県では義綱は密かに佐渡島から脱出し越後国で余生を過し没したとの伝承が各地に残され、長瀬神社の伝承もその1つとされ、隣接する西光寺には義綱の墓碑と伝わる宝篋印塔が建立されています。その後は歴代領主の庇護となり天正2年(1574)には越後守護職である上杉家が社殿の造営を行い、江戸時代には新発田藩主(新発田城の城主)の崇敬社として青海庄八ヶ条41カ寺一宮に格付けされ貞享5年(1688)には4代藩主溝口重雄から社領8反が寄進、享保19年(1734)には7代藩主溝口直温が自ら製作した金地の絵鷹の額を奉納、その他にも社殿の営繕工事や、神具、祭具の購入などにも多大な補助を与えています。明治時代の神仏分離令を経て、旧社号である「長瀬神社」に服しています。
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