新潟県・阿賀町・取上観音

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【 概 要 】−文治元年(1189)、奥州合戦で大功があった佐原十郎義運(頼朝の側近で寝所を警護する11名の1人、一族の後裔が戦国名大名芦名氏を輩出)は源頼朝から奥州国の内3郡が与えられ会津黒川城(福島県会津若松市)を築くと当地には家臣である小田切弾正忠義が配されました。忠義は観音像を日向山の山頂に安置、小田切氏は観音像の御蔭か?室町時代中期まで長く当地を支配し、観音像も代々篤く信仰されたようです。嘉吉2年(1442)、小田切氏が没落すると庇護者を失い衰微しましたが、永禄元年(1558)に石川孫八と太郎左衛門が当地に流れ着き観音堂を参拝した際に、荒廃した境内を嘆き御堂を再建しました。その際、本尊も修復の為に京都の仏師に依頼しましたが、名僧として知られた行基菩薩が彫刻した有難い仏像の為に修復を断ってきたと伝えられています。信仰が広がると当初の境内では参拝が難儀な事から宝永元年(1704)に現在地に境内を移しています。現在の観音堂は明治11年(1878)に阿賀野町出身の長嶺金次郎が棟梁として手掛けた建物で、取上観音の伝説の場面を表現した50個の彫刻が施され、小規模ながら見ごたえある御堂として知られています。取上観音の名称の由来は建暦2年(1212)に和田義盛の3男朝比奈三郎義秀が自分の力が弱い事を悩み修行を積みながら当地を訪れ、観音様に力を授けてもらうように祈願すると3週間後に紫雲と共に観音様の化身が出現し、義秀の願いを聞き入れた事を告げ、麓にある阿賀野川の中の大石を持ってみなさいと命じられました。早速、義秀が麓に下り川の中の大石を取り上げてみると不思議と軽々に持ち上げる事が出来た事から何時しか取上観音と呼ばれるようになったと伝えられています。

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