新潟県・阿賀町・津川河港

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【 概 要 】−津川の地は阿賀野川舟運の拠点と会津盆地の中心地である黒川城(福島県会津若松市)の城下と新発田地方を結ぶ越後街道の宿場町が合流する交通の要衝として重要視され、阿賀野川と常浪川の合流点にある麒麟山には津川城が築かれていました。江戸時代に入ると会津藩領に属し、特に物流が盛んになると阿賀野川舟運が急速に発展し津川河港は流通の拠点として大きな役割を持ちました。これは、津川河港の上流には西海枝の瀬、明神の瀬、銚子ノ口などの難所が点在した為、何度も工事が繰り返したものの、結局舟運船の通行が不可能だったので会津方面に荷物を運ぶ場合は津川河港で人馬に積み替えられ、陸路で再び舟運船が利用可能の河港に運び、逆に下流に運ぶ場合は津川河港で、人馬から舟運船に積み替えた為で、津川河港は物資の集積地として極めて重要な役割を持ちました。慶長20年閏6月13日に江戸幕府により一国一城令を受けて寛永4年(1627)に津川城は廃城になりましたが、会津藩は引き続き重要し、津川には代官所、船番所、藩蔵が設置されました。最盛期には港に150隻の舟運船が出入りし100人を越える丁持衆が働いていたとされ活況を呈しました。会津藩からは年貢米の他、特産物である会津塗、煙草、薪炭、木材などが日本海の北前船を利用し京都や大坂などの大消費地に運ばれ、逆、会津の内陸部には日本海の海産物や塩、綿布などが運ばれました。明治時代初期にはイギリス人女性紀行家イザベラバードも越後街道(会津街道)と会津西街道(下野街道)を利用し津川宿で宿泊しており交通の要衝だった事が窺えます。明治時代中期以降は急速に衰退しましたが、現在でも船着場跡が残され阿賀町指定史跡に指定されています。

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