【 概 要 】−波多武日子命(孝元天皇の皇子大彦命の子供)が古志国の北部を賜り、后である天美明命(新羅国の王である天日鉾命の娘)を伴い当地に赴任すると三官ノ原に居館を設け、小丹生三官と名乗りました。両柱が死去すると川東金蔵山の三都嶺(長岡市妙見町金倉山)に葬られ、その後裔は姓を古志連に改め、蒲原の小栗山に進出、再び三官城に戻り古志地方を掌握し祖神である2柱と須佐之男命を小丹生ケ岡に祀ったのが小丹生神社の創建とされます。ただし、本来は小丹都比売(埴安姫・埴山姫)を祖神に持つ一族が当地に移り住み奉祭したと考えられているそうです。小丹生神社は延喜5年(905)には官幣社に列し、平安時代に成立した延喜式神名帳に式内社として記載された小丹生神社は当社の事とされます(他に長岡市島崎(旧和島村)に鎮座する宇奈具志神社も小丹生神社の論社とする説もあります)。承平の乱(935〜940年)の際は小丹生神社の神官が相馬方と対立し三官城が落城、終結後に現在地に遷座し、地名である熱田ケ岡に因み小丹生神社熱田明神と呼ばれるようになっています。明治4年(1871)に古柏崎県22大区8ケ村の村社、 明治6年(1873)古志郡第15大区小6区21ケ村の村社に列してます。
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